礼拝 4月 7日(日)午前 10時15分〜
聖書 マタイによる福音書 第9章 18〜26節
説教 「キリストとのふれあい」
八束 清 牧師
わたくしたちはそれぞれに「神」なるものを漠然と思い描くことからまず始まります。そして聖書が証しする神さまが私を招いたのだと信じ、洗礼を受けます。ただそのためには、父・子・聖霊なる神さまへの信仰の告白が求められます。これは私の側から始まった信仰ではなく、教会を通して神さまが私へと届けてくださった信仰です。
わたくしたちはそれぞれに「神」なるものを漠然と思い描くことからまず始まります。そして聖書が証しする神さまが私を招いたのだと信じ、洗礼を受けます。ただそのためには、父・子・聖霊なる神さまへの信仰の告白が求められます。これは私の側から始まった信仰ではなく、教会を通して神さまが私へと届けてくださった信仰です。
神の名は、人の側がつけられるものではありません。神の名は神さまが働かれたそのお働きを通して、人の側に明らかとなります。この神の働きを受け、教会は神さまをほめたたえます。ですから、御名を崇め賛美する祈りの内実は聖書の御言葉によって常に新たに改められてゆくのです。
イエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃり、女に歩み寄ってくださいました。ただ、女はそのまま居れば良いのだ、ということになりません。イエスさまがまことの神へと引き上げてくださることに、女も自らを明け渡す必要があります。女は病を治してもらいますが、イエスさまはこれで一件落着したのではないからです。
イエスさまはこれからエルサレムへと向かい、十字架につけられます。ここに、自らを犠牲としてこの女を救う神がおられると示されます。わたくしたちは神さまのこの思いとお与えになる信仰へとこの身を引き上げて頂かねばならないのです。